京極堂を例にとってみる。
映画での京極堂は登場人物の一人にすぎず、憑物落しという大役を担うものの、印象としては脇役に近い。
京極夏彦自身は以前から登場人物は、全体を構成する部品にすぎないという趣旨の発言をしており、それから考えると映画の京極堂の扱いは京極夏彦自身のイメージに近いのだろう。映画ではこの発言を汲んで演出をしていると思う。
しかし「姑獲鳥の夏」をキャラクター小説として読んだ者にとって、京極堂は快刀乱麻を断つ名探偵であり、近代の陰陽師を体現するいわばヒーローのような存在だ。映画で観たかったのもヒーローとしての京極堂だろう。しかし実際の演出は違う。
京極堂が陰陽師として出陣するシーンだが、このとき京極堂はだらだらと坂道を普通に降りて来くる。クライマックスへの始点であるこのシーンは、普通に考えるならば一番の見せ場になるべきだし、映える演出はいくらでも考え付くはずだがそうは撮らない。
これは作品のテーマの一つである、日常と非日常は連続しているというものを意識した演出なんだろうけど(これは淡々とした憑物落しの場面でも感じた)、このような演出は必然的に京極堂をスポットから外すことになる。
個人的にはこれでも良いと思うのだけど、このあたり気に入らない人は多いんじゃないかなあ。
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